明治時代に入ると、しょうゆはいよいよ庶民の生活必需品として定着し、消費量が増えていきます。それに伴い、生産量も増加、販売競争も激しくなっていったのです。 |
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明治時代には、しょうゆ産業も、まだ手工業的要素が強く、設備の近代化が進んでいませんでした。しかし、明治15年以降は、しょうゆの理科学的な手法の研究が進み、これより製造技術が長足の進歩を遂げていったのです。日本のしょうゆ産業が近代的な大量生産体制に移行したのは、大正7年の第1次世界大戦後に訪れた好況時代。この好況が近代化に拍車をかけ、企業の合同も行われて、大量生産時代に突入していくのです。
ところが、昭和12年以後、原料の入手難から質の向上よりも、量の確保が先決になってしまいました。本醸造しょうゆはほんのわずかしかつくられず、代用品として「アミノ酸しょうゆ」が生産の主流となる時代を迎えます。そして、しょうゆ業者が再び品質の向上を目指すことができるようになるのは、終戦後の昭和25年、配給公団が廃止され、価格統制が撤廃されて、自由販売が認められるようになってからでした。
その後、約半世紀を経た現在では、均質ですぐれた本醸造しょうゆが大量に生産されるようになり、北米を中心に、世界中に輸出されているように、その調味料としての裾野をますます広げています。 |
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