イベント情報 | |
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出演 | 水戸部七絵、吉川陽一郎(造形作家) |
日時 | 2017年7月29日(土) |
定員 | 30名ほど |
参加費 | 入館料+300円 |
7月29日(土)、本展出品作家である水戸部七絵と造形作家の吉川陽一郎氏をお招きしギャラリートークを開催しました。その一部を紹介いたします。
1支持体をきっかけに。 (水戸部)吉川さんをここにお呼びした経緯を説明しようかと思います。最初に展覧会を企画したのは二十歳の時で、普通に描けば壁に展示出来ると思っていたんですけれど、(作品が重すぎて)釘が折れて展示が出来なかったり、大学を卒業して東京ではじめて展示をした際にも木枠が壊れて、折れたキャンバスのままギャラリーで展示をしたりというトラブルが結構ありました。そんな中、あのアンゼルム・キーファーという作家が、鉄でキャンバス、パネルかな、を作っているという噂を聞きまして、鉄でキャンバスを作れる人を駆けずり回って探している間に、たまたま豊嶋康子さんというアーティストのレセプションに吉川さんがいらっしゃって、僕がやってあげる、ということで、お頼みした次第なんです。で、それが2015年ですね。 (吉川)そうですね。 (水戸部)二年前。その鉄の支持体は、愛知県美術館の個展で展示させていただいていたんですけれども、絵具自体が何百キロになり、木枠では折れるというのは想定していたので、それを踏まえて吉川さんに制作していただいた次第です。 (吉川)これはすごく大変で、一回作ったんですけれど、枠自体が持たない。10センチの厚さ幅が2m40×3m60の大きさで、とても一つでは作れなくて、四分割して作ったんですけれど、テストピースをLアングルで作ったんですが、それだけで歪んでしまって、今度は角状の鉄で箱型に四つ組み合わせて作りました。組み立ててみたら、人が二人三人では動かせない重いもので(笑)、これで絵具がついたらどんなに重いだろうと思いながら、水戸部さんのところにもっていったのをよく覚えています。 |
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(水戸部)そうですね。人が運べないので、アトリエから運び出す時にトラックをつっこんで、4トンクレーン車で絵を吊り上げてなんとか美術館に運べたんですけれども、その時にかなり、あたふたして、この後、絵がクレーンから一回落ちたんですけれどもその時にパニックになって吉川さんに電話したくらい、心臓が止まるくらい、搬入にてんぱっていたと思うんです。 (吉川)必要以上に丈夫に作ったというのはあります。納めてしまえば終わりというのではなくて、やはり残っていくもので、壊れないようにというのはすごく気を使いました。 (水戸部)なんとか不変性というか、自分の作品を残したい願望が強いので、作品を丈夫にしよう丈夫にしようという考えが強まっていって。(スクリーンの画像で吊り上げた作品がちょうど落下した場面が流れる)。下にある石のブロックとか粉砕して、けっこうあたふたしていました。今笑って見られるんですけど(笑)。折れなかったので良かったです。本当に良かった。それでは吉川さんの作品を紹介したいと思います。 |
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(吉川)私は1980年に多摩美術大学の彫刻科を卒業しまして、それからずっと作品を作っています。いろんな素材を使って作るんですけれど、基本的に最近はものを作るというより、パフォーマンス、アクションをやっていて、これは(鉄の玉を転がしながら)ぐるぐる回る、同じところをぐるぐる四日間続けると痕跡が出来るという作品です。なぜこんなこと始めたかと言いますと、作品を残してもいよいよ大変なものが多くなるだけなので形に残さない、搬出搬入が要らないという、まずそこが一番大事というのがあって。自分に負荷をかけないという作品という。 |
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これは森の中にただ円形に植物を植えるというついこないだやったワークショップで、直径が16メーターあるんです。周りに生えているある特定の植物だけを並べるっていう。これも搬出搬入が要らないというのと、他の植物を入れているわけではないので、植生も変わらないっていう。普通は作品が終わると消えるんですが、これはこのラインが逆にどんどん強くなってゆく、最終的に円がきれいにできてゆくという5年とか10年かかる作品です。ただこれは美術展と全く関係なく、近所のワークショップなので、美術という文脈で発表することはあまりやっていないですね。これが吉川という作家です。
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2水戸部七絵の履歴書 (吉川)水戸部さんは普通の美術が好きな人と同じように美術大学に入って美術を学ばれたんですよね。日本の美術大学に行って、どういう苦労があったか、またその時思ったことはありますか? (水戸部)まず美術大学に入るために予備校で受験勉強をするにあたって、石膏像のデッサン画を常に描かされ、頭の中では石膏像が一番美しいという状態で入学したものですから、大学に入って大理石の像を見て、石膏像って偽物だったのかな、と思ったりしながら、考え方とか異常になっていた記憶があるんですけど。 (吉川)二日で? (水戸部)真剣じゃない人が多かったので、ちょっとここは合わないなと思ったり。その次の週に長谷川繁さんという師匠に出会ってちょっと続けてみようと思ったんですが、二年目くらいから少しずつ、周りの絵を描く同級生もすごく良いな、自分以外の人の作品が良いなと思えてきて。それで展覧会を企画したり、結構大学ではがんばってはいたんです。大学の最初の課題がF15号という大きくないサイズに静物画を描くという課題を与えられて、それがまた退屈で、なんか手抜きなのではないかという怒りを、いつも教授たちにぶちまけていた気がします。予備校の頃だともう少し殺伐としていて、何とか作家になろうなろうとして学んでいる人が多かったものですから、すごく退屈な課題だなと感じてはいたので、自主的に何かしなくてはいけないと思いながら、大学生活でたくさん描いていました。 (吉川)そのあとに水戸部さんは外国に行かれますね。卒業してから。外国で影響されたこととか、気づいたことっていうのは、何かありますか? (水戸部)物心ついた時から、日本のこけしやひな人形は好きではなくて、自分に対するコンプレックスもすごく強くて。今発表している作品はほとんど人物で、顔を描いているんですけれど、静物や風景は結構すんなりきれいに描けるんですけれども、人物だと理想とか憧れが強すぎて、良い絵にならないというかひどい絵になるんですね。海外に行ったらいろんな人種の人がいたり、或いはアメリカの砂漠の方にも滞在していたんですけれど、何もないところでただただ絵を描いたりしてゆく経験で、なんとなく開放的になって、人物では目や鼻や口にこだわっていたんですけれど、今はそういうものを描かなくなって、人の特徴をまったく意識せずに描く境地にたどり着いたのは海外での経験が大きかったと思っています。 (吉川)人種的にも多様っていうか。日本って日本人という意識がすぐ生まれてしまうくらい、本当は多様なんだろうけれど、あるパターンていうか。外国に行くと見ただけで多様というか、完全に違うから。 (水戸部)そうですね。 (吉川)スタートが違う感じ? (水戸部)みんなごちゃごちゃして気持ちが良い!というか。 (吉川)そういう経験をされて、今に至るんですけれど、今の表現はどういう過程を経てこうなったのか、最初どんな絵を描いていらして、例えばどんな人に影響を受けたかとかあればお願いします。 (水戸部)一番最初に美術館に行ったことも結構記憶にあるんですけれど、小学校二年生の時に、レオ・レオニ、絵本とかスイミーで有名な作家なのですけど、実は油絵や彫刻や写真や鉛筆などいろんな作品を作っている作家で、この人のブロンズですとか、小学校五年の時に上野で見たゴッホの油絵、ひまわりを見た記憶が強烈で、突き刺さるような輝きというか。ゴッホは皆さん知っていらっしゃると思うんですけれど、その時にもう「これだ」って思いまして。まあ油絵という言葉も知らなかったんですけれど。 |
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(吉川)五、六年生? はい。絵はずっとちっちゃい頃から描いていて、画家になると思い込んでいたんです。 (吉川)へえー。それでだんだん影響されて? (水戸部)自分も結構厚塗りだったんですけれど、最初に見たゴッホの影響なのか、一番初めに描いた作品も割と厚塗りだったんですね。それで予備校の先生にいつも削られたり、修正されたりしてたんですけど。それで自分の感覚に近しいなとアグレッシブなペインターの人たちだなと。 レオ・レオニ(Leo Lionni、1910- 1999) |
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3水戸部作品の魅力 (吉川)私は専門家ではないのですが、見る方の立場から、下の水戸部さんたちの作品を見たときに思い出すのが、印象派の人たちが最初にやった第一回印象派展(1874年)の批評です。 「この展覧会について私が最低限主張しておきたいこと、それは趣味の倒錯行為といった危険を引き起こすものではなく、それは非協調派、むしろ絵画における印象主義者として知られている一つの小さな集団の趣味ということである。そして私はこれをとてもおもしろいと思った。しかしその影響で私は、美は美であり、醜は醜であると定められた、あらゆる古き規則について、これまでになく考えされられるようになった。それは私たちに充分に洗練された趣味から遠のくことを警告している。私が言及している、この展覧会の若き出品者たちは、現実を飾り立てない現実主義自然主義の同志であり、脚色したり美化したり、選りすぐること、理想主義、ロマン主義に対しては断固として反対である。また彼らは芸術が始まって以来、今まで最重視されてきた美の思想に専心することを最善とする芸術家に敵対するものでもある。」 私の水戸部さんの作品を見たときの印象とそれほど変わらない。これ百何十年も前に書かれた文章ですけれど、この言葉がそのままあてはまるといつも思うんです。それともう一つ、印象派を擁護したマラルメという詩人の言った言葉なのですけれど、 「個々の作品は精神の輝かしい創造でなければならない。手が覚えている、曰く言い難い技術があるのは本当だが、しかし目はそれが見てきたものすべてのものを忘れて、今、目の前にある対象から学ばなければならない。目はそれが見ているものだけを、またあたかもそれをはじめて見るかのように眺めつつ、記憶からそれ自身を抽象しなければならない。そして手は、あらかじめあるどんな手際を忘れて、意志のみによって導かれる非人称的な抽象とならなければならない。」 印象派の人達とは遠く離れているんですけれど、そこから脈々と繋がれているような、そんな気持ちにいつも思うんです。それは印象派の子孫のような。 (吉川) もうひとつ私の好きな赤瀬川源平さんという方が、読売アンデパンダン展で書いた「脱芸術的思考」という文章を読みます。 「(略)それまで絵具の上での冒険と言えば、せいぜい油絵具の中に砂を混ぜるぐらいであった。(中略)しかし恐る恐る混ぜてみた絵具の砂が、ひとつのテクニックとして会場にあふれてくると、次の年には砂を超えて、絵具の中には石ころが現れてくる。そうするとそれと競うようにしてブリキの破片があらわれたり、肌着の端くれがあらわれたり、画面に無数の釘が打たれたり、そいういう画面のマチエールの突起競争が始まった。(中略)はじめは絵画上のテクニックに名を借りて現れてきた、絵の中の砂や石ころが、なおも質量を増大して、ブリキの破片や肌着の端くれとなったところで、カンバスの上の絵具を物質としてはじめて意識したのだと思う。(中略)はじめは恐る恐るだった読売アンデパンダン展でのでっぱり競争は、急速に進み、画面には木材や縄や靴や鍋が現れ、鉄骨や自動車のタイヤや、スクラップ類が現れ、画面のでっぱりは10センチ、30センチ、50センチと進み、ついには1メートルものでっぱりとなり、それは絵画の画面というものが支える限界を超えてしまい、ついにはそのでっぱりは画面から落ちる、そのようにして絵画を離れて床に置かれた物品類を見る。そうやって私たちはオブジェというものを知ったのだった。」 そうやって赤瀬川さんは絵画をやめるわけです。でもその「落ちちゃったでっぱり」が踏みとどまることが出来る可能性を見せたのが、水戸部さんの作品だと思うんです。 |
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(水戸部)ありがとうございます。今、床に三点展示してあるんですけれど、絵画としての展示とするならば、壁にかけたいという本音がありまして、いつかどうにか実現したいと思っております。絵画として描いているならば、絵画としての展示で飾りたいなと思っています。 (吉川)壁に掛けるのが自明のようなものっていうのではなくて、掛けられない絵画というのも、もしかしたらあるのかもしれない。 (水戸部)真っ白な紙に描くにしても勇気がいるというか。 (吉川)その勇気というのがすごく不思議。 (水戸部)デッサンで、目の前のコップを写すと大混乱が紙の中に生じて、あたふたします。絵具になると結構やりたいように出来るので、無意識の中に遊んでいたりする気がし逆に大学の時に、彫刻の授業があってチャレンジしたこともあるんですけれど、彫刻って360度全方(角)から作品じゃないですか。. (吉川)はい。 (水戸部)絵画は180度の空間で作っている感覚で、なおかつ彫刻になると地球のすべての物体と戦っている感じがして、それは自分には無理だなと思いました。考え方もやはり全然彫刻の人とは違って。例えばドローイングを沢山描いている時期があったんですけれども、紙にコラージュなどするとき、彫刻の人は接着の糊も考える。例えばボンドだったり、瞬間接着剤だったり、米粒でも、接合方法も踏まえて作るという考え方をしていて、自分は多分ビジュアルでしか見ていなくて、表面的なものしか見て判断していなかったので、確実に彫刻の考え方ではないなと思います。 |