イベント情報 | |
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出演 | Nerhol、大浦周(埼玉県立近代美術館 学芸員) |
日時 | 2017年6月30日(金) |
定員 | 30名ほど |
参加費 | 入館料+300円 |
6月30日(金)、本展出品作家であるNerholと埼玉県立近代美術館 学芸員の大浦周氏をお招きしギャラリートークを開催しました。その一部を紹介いたします。
1.Nerholについて (飯田)僕らはNerholと申します。名前の由来は、日本語の「練る」と「彫る」から来ていて、私は彫刻をやっております。もともと本を切ったり本の中から文字を切り抜いて造形物をつくったり、ということがメインの彫刻作品を作ってきました。田中は、現在グラフィックデザインを基軸としてデザインをしています。そういう二人が集まり結成しました。現代美術のアーティストにはデュオってそんなにいないので珍しいと思っています。 (大浦)私とNerholの接点は、恵比寿のギャラリーで「かえりみる」という展示を見たのが多分最初です。直接お会いしたのは、上野の森美術館で毎年開催されているVOCAという展覧会に私が推薦したことがきっかけでした。Nerholのポートレートは、絵画への目配りがありつつも、写真が孕む問題や―彼らにとって第一のプライオリティではないかもしれないのですけれど―彫刻的なボリュームの問題など、一元的なとらえ方ではなく、さまざまなジャンルや角度から多角的にアクセスできる作品だと思います。 (飯田)基本的な作品の作り方は話をした方が良いでしょうか。 (田中)ポートレートは、まず3分間の時間を使って真正面から約200枚連続で撮影し、それを時系列にプリントアウトしてスタックする。その上から飯田がカッターで彫りこんでいくという流れで制作しています。 (大浦)最初にこの作品を見た時の感想をお話させていただくと、「人の顔」は、視界に入った時に瞬時に認識できるくらい強くて身近なモチーフ、あえて見ようとしなくても、自分の感覚の中に入ってくる強いモチーフです。積み重ねられ、彫ることによって歪められた顔のイメージは、その半ば自動化された認識のシステムを少し遅らせ、抵抗を作る狙いがあるのかなと思いました。素通りさせるのではなくて、そのまま作品の前でちょっと立ち止まって考えてしまうような、そんな作品だな、と。 (田中)人の顔は本来こういうものだという固定概念がまずあって、それをはみ出した状態にもかかわらず、顔だと人が無意識に反応してしまう。これ(ポートレート)をやろうと思ったきっかけとして、「自分たちが見ているもの、視覚認識しているものが、本当に正しいのかどうか」という問いに対し、現代人としては疑わざるを得ない部分が経緯としてありました。例えばモデルさんを撮影したまま印刷することはまずありえないんですよ。つまり、どう見られたいか、どう認識してほしいか、ということが介入し、レタッチされて顔が露出されるんですよね。それはデジタル技術が向上したからだとは思うんですけど、肖像画の系譜に戻せば絵画になってくるじゃないですか。絵画は基本的に金銭的な対価を払って描いてもらっていることがほとんどで、権力者側がお願いするとなったら、自分がどう描いてほしいかというところが含まれますよね。そういった時に、現実的に、その視覚的にフラットな見え方がどこに位置するか、というと、よく分からないんですよ。そういう印象がなんとなくあって、自分が見ているもの自体を完全に無視し、そういうことに囚われないで顔を認識する手段を考えていた際に、時間軸を加えることでそこを避けた、という部分がありました。 |
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2.『multiple─roadside tree』について (田中)街路樹を伐採業者から買い取って、輪切りにしています。いつもは目の前で起きている時間を捉えていますが、この作品は蓄積された時間を輪切りにして解明していき、それを積層しています。木は自然物ですけど、人が介在することで、道路の脇に秩序だって立てられている。人の認識としては街路樹としてひとつの単語になっているけれども、もとは自然のものなので、それぞれが蓄積した木の動きは違ったりしますよね。人が介在してコントロールできる範囲と、出来ない範囲が存在していて、それに対して僕らは向き合っている部分があります。これは全部で50個作ったんですけれど、50個作るとですね、やっぱり様々な柄がありつつ、 (飯田)全然彫っているところが違いますが、(同じ柄に)見えていきましたよね。 (田中)そうそう。つまりだいたいのことを理解して彫っているんだけれども、やっぱり分からない部分がずっとあって、これがやればやるほど、同じ素材の中に潜在的に内包しているところに辿り着けそうで辿り着けないということを目の当りにした作品でした。 |
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3.新作『interview』について (田中)この作品も連続撮影をしています。ただ以前のポートレート作品と大きく変わったのは、被写体の方にインタビューをしているという状態で、その横からカメラマンさんに連続撮影してもらっています。なので、時間軸とかスタックというところは一緒ですけど、今までは留めておいてもらう、動かないでください、と被写体の方に言っていたところを、逆に非常に変化をつけるインタビューを設定して、いろんなことを聞きながら、それに対しての反応をダイレクトにキャプチャーしていくところが大きく違います。連続撮影時のシャッタースピードは一緒ですが、インタビュー自体は実は8分くらいしていて、その中で一番ベストな状況を抽出したところを彫り進めています。 (大浦)彫りだけではなくて、被写体の感情を揺さぶる状況設定や、ある程度のスパンの中で必要な部分の写真の集合を抽出する行為など、作家として主体的に関わる要素がかなり増えている印象を受けます。「カメラが撮りました」という写真のそっけなさとはかなり違ったものが素材になっていると思いますが、飯田さんとしても彫っていて、その差は大きなものですか? (飯田)ものすごく大きいと思います。等高線状に切るという以前の制作方法は、像を自分が垣間見ながら切ってゆくので、少し動くだけでも驚きを持ちながら画像を定着させてゆくということができました。しかし今回は定着することできない。それはどんどん像が動いてしまうからです。もう一つ大きく違うのは、顔は動くけれども最後に人の顔に見えるようにという部分のコントロールを、田中との話し合いのながら彫り進めていったことでした。ある程度の形のラインは僕が決めていますが、何度も話し合いながら制作することが出来たのが今回の作品です。そういった手法としても初めてできた作品だと思っています。またその話し合いの中で、田中がどういうイメージでインタビューという作品を作ろうと思ったのかということが分かってきた。掛け合いが作品を作っている気がしました。それは多分、こちらの作品(『multiple─roadside tree』)でやってきたことから生まれてきたんだと思います。一人のアーティストが一から全てを行うことは、ものすごく難しい。僕らはそれを二人でやっていますが、逆に二人の難しさを痛感することもあります。そんな掛け合いを感じながら作った作品なのかな、という気がしています。 |
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4.メディウムについて (田中)僕らのやっていることって、結局メディウムありきじゃないですか。ポストメディウムというか、発展の段階っていくつか存在してきたと思うんですけれども、コンセプチュアルアート──今一番わかりやすい現代的な作品のあり方、というものとは対比しているなぁと。もちろん同時並行で存在しているのだけれども、ある意味相まみえない、物質性と非物質性という要素があると思っていて、それは両方軸あって今までアートの世界はずっと発展してきたと。平たく言うとそういうことってあると思うんですけれど、今起きている状況を俯瞰してみたときに、素材に対してひたすら手を使い、アナログに向かってゆく行為って、どういう風に見えているのかなと思っています。僕らは結局自分たちがやりたいことなので、これでいいんですけれど。 (大浦)非実体的なものを扱うにしても、メディウムが前面に立ってくるような作品であったとしても、基本的には見る人が向き合った時に何が起きるかが一番大切だと私個人は考えていて、そこにおいてメディウム性とか、実体がないなどということは、その点では大きな違いはないと思います。むしろ私が作品を見るときにはそこで区分けをしないようにしています。作品に、鑑賞者を目の前に惹きつけて、そこから動かせない何かがあって、そこで起こることが豊かかどうかが重要だと思っています。なので、(この展覧会の場合なら)ネルホルの作品の手わざや、刺繍の非常に細かいステッチ、油絵具の物量感など、物質のインパクトや技巧的な面が突出してしまうと鑑賞体験として物足りないとは思います。 (飯田)圧ですね。圧。やはり圧だと思います。なんかグワッと一点集中的にウワァーとなるというか、言葉になりませんが。あとなんか作品の前に立つとウワァ〜ってくるじゃないですか(笑)そういう感じは、作品の大小は、あんまり関係ない。もちろんそういうモノの好き嫌いはあると思います。大きい作品に囲まれて、ドワァ〜というのが好きな人はドワァ〜っていうのを求めますし、小さいモノからグッと入り込みたい人は、そういう欲求から作る人もいます。大事なところは、その本質みたいなもので、それが圧力みたいなことなのかなぁと、最近思っています。 |