美術館通信 vol.2 トークセッション 2005年初夏 前田常作氏講演会より「南桂子さんの思い出」


浜口陽三は世界的に知られた巨匠ですが、その夫人もまた浜口の影響を受け、銅版画の作家として生きたことをご存知でしょうか。
 当館では、四月末より、浜口の妻、南桂子の作品展を開催しています。昨夏大きな反響をいただき実現した二度目の展覧会です。パリとサンフランシスコで浜口と生活を共にし、自らも作家として活躍した女性の思い出を、古い知人である前武蔵野美術大学学長、前田常作氏に語っていただきました。昨年開催した講演会ですが、今回の企画展に合わせて紹介いたします。

 私は富山県入善町椚山新の出身です。旧の椚山村には長島家という素封家がいました。当主は、東京美術学校の彫刻家を卒業し、油絵もお描きになりました。私はしょっちゅう長島先生のお宅に行って絵の勉強をさせていただきましたが、そこへ南桂子さんもいらっしゃって一緒に絵を描きました。当時、戦争中ではありましたが、長島家は一種の文化サロンでした。
 私が長島家のおつかいで南さんのお家にうかがったとき、「こんにちは」と声をかけると、桂子さんはいつも「はあい」と大声で返事くださいました。太陽のように実に明るい方でした。
 南さんのご一家は、夏休みには新潟県の能生のお寺さんの部屋をお借りになっていました。私は師範学校の学生で、そこに一緒に寝泊りして、南さんとキャンバスを立てて絵を描いたりしました。私がセザンヌについて生意気なことを言いますと、南さんは「私は理屈で絵を描かないのよ、自分の思うままに描くのよ」とおっしゃいました。正宗徳三郎の絵が好きだともおっしゃいました。当時の南さんは、カラフルな絨毯を広げたような油絵を描いていました。


南 桂子 蝶と水 1963年
後年、 私はパリに留学し、南さんのところへご相伴にあがりました。当時、巨匠に近かった浜口先生によく尽くしておられました。お客さんが多いのですが、食事を全部できぱきと作って、いやな顔をなさらない人でした。炊事場の脇に仕事場がありました。時間が少しでもあれば、版画を彫るからです。
 自分一人になって苦しんでもだえたことがあったかもしれませんが、そういうところを一切見せない人でしたね。明治の女という表現がありますが、やはり芯の強さを持っておられたと思います。
 南さんのナイーブな表現には、気取ったところがありません。そして何よりも自然の命の表現があります。人物には、何ともいえない悲しい、こちらが肩を寄せてあげなくてはならないようなものが漂っています。はじめは弱そうだけれど、見ているうちにだんだん相手が強くなります。力強さがじっと出てくる。それが不思議な魅力です。

 

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