イベント情報 | |
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出演 | 上野 紀子 |
日時 | 2015年10月17日(土)15:00~16:00 |
参加費 | 入館料+300円 |
定員 | 50名 |
本展テーマの欧州旅行をはじめ、秋山庄太郎の思い出や魅力を語っていただきます。
1960年(昭和35年)、秋山庄太郎は40歳を目前に、順調だった仕事をすべて断り、自分を見つめなおす旅に出ました。それは芸術への希求を満たす旅となりました。カメラを手にさりげない街角の光景を撮影し、活躍中の芸術家と触れ合いそのポートレ-トを撮り、自らの写真を心のおもむくままにとらえたのです。そのとき現地で知り合った芸術家のひとりに、浜口陽三がいます。ヴェネチアビエンナーレの日本代表作家の一人として出品を控え、充実した日々を送る浜口の姿に、秋山は何度もカメラを向けました。講演会では、実際の旅の様子や人生における意義などを、調査した学芸員と、留守をしていたお嬢様の目を通して対談形式で語っていただきました。その一部を紹介いたします。
(齋藤)本展は1960年に写真家・秋山庄太郎が、パリに外遊した時に撮影した作品と、その外遊時に親しくさせていただいた浜口陽三先生の作品を併せてご覧いただくという趣旨です。秋山の外遊については、撮影したフィルムがカラーとモノクロ合わせて約400本ほどあり、本人の没後に整理作業を進めていくなかでいろいろな事実が明らかになってきました。また、旅先から出した長女宛の絵はがき、外遊中につけていた日記が残っているんですね。これらの資料から、秋山の当時の心情や、パリで活躍していた芸術家の方々との交流、芸術家の活躍ぶりなどを知ることができます。展示にあたり、新たに多くの写真をプリントしております。もちろん生前発表した作品を尊重するのが第一かもしれませんが、この時の撮影されたフィルム全体を見ていくと、写真日記とか、写真紀行というべき要素も多く含まれております。ですので、いろいろな視点からこのフィルム群に光を当てることも大切なのだと改めて感じているところです。今日は、外遊の経過を写真でご紹介し、それを通じて秋山庄太郎の人生においてこの外遊が持っている意義について考えてみたいと思います。 |
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*絵はがきをめぐって (齋藤)パリに着いてから秋山は、モンパルナスのホテルエグロンを拠点に、街並みや人々の生活などを撮影していきました。外遊時に、子どもの写真を撮ったものがたくさんあるんですね。学生時代には子供の写真をよく撮っていたのですが、仕事ではなく、自由に写真を撮って良いことになった時に、また子供のほうにカメラが向いたのかな、と思います。 外遊中に長女宛の絵葉書を約十数通送っているのが確認されています。こちらの館の1階の展示室でもご紹介しておりますけれども、そのうちの何点か、これから見ていきたいと思います。 (上野)心細そうですね。(笑)わざわざ書くなんて。 (齋藤)自分に言い聞かせるようですね。 (上野)自分のさびしい気持ちをここで表現しておかないと、この先やってゆけないのではないかと思ってたんじゃないかな、と思います。 (齋藤)次にパリに着いて、4日目に書いた絵はがきです。 (上野)パリからのお土産はあまりなかったんです。(会場笑)飛行機の経由地、アンカレジで買ったアラスカの女の子の人形くらいしかないのですけれども。でも身体を大切にしなさいよ、という父親らしい気持ちがあって、今子どもを持った身ではとても嬉しい言葉だと思います。 (齋藤)次に3月の中旬頃には、日本人の仲間たちと一緒に小旅行に出かけています。ここはパリから遠くない、シューブルーズというところの古城ですね。その時も絵はがきを買って長女宛に送っています。こういった文面です。 (上野)連れてってもらってないです。(会場笑)。良い子にならなかったのか、連れて行ってもらえませんでした。葉書に「春休みでも時々勉強しなさい。」と書いてあって、とてもびっくりしました。父から勉強しなさいなんて聞いたことがなくて。一応、一般的な父親らしい言葉を書きたかったのではないかと思いました。 (齋藤)当時ご自宅で、お父様とのどんな思い出がありますか? (上野)父のゆっくりくつろいでいる姿を見たことがありません。しょっちゅう何かばたばたしてから出て行った、という姿しか見ていないんです。でも何か頼むと、ちょっとするとそういうものが届きました。たとえば鳥が飼いたいと言ったら、知らないうちに鳥籠が押入れに入っていて、朝開けてびっくりしました。自転車も欲しいと言ったら、庭に届いていました。絵葉書のかたちで、言葉で自分の気持ちを残しておいてくれていたことは、とても嬉しくて、こういうことは自分ではしていないので、これからちょっと今からでも子供にしておいてあげたいな、ということは考えました。 |
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*撮影 (齋藤)3月下旬にはロワール渓谷で古城めぐりをしました。道中で見かけた牛馬の市で、そこに集まった人たちがカフェで休んでいる様子を撮っています。その写真が「憩える人々」というタイトルで、パリ外遊時の代表的作品の一つとして知られているものです。この写真を、どういうシチュエーションの中で撮ったのか、フィルムの前後を見てみたのですけれども、直前のカットまで馬がたくさん集まっているところを撮っていて、一枚だけこの場面を撮り、次のカットはもう別の所になっています。要するにこの場面を何枚も続けて撮っていたというわけではなくて、ワンショットでこの作品が生まれているんですね。日記には「牛馬の市で興味深い撮影」をしたと書いていて、やはり秋山庄太郎も手ごたえを感じていたのかもしれません。 |
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*浜口陽三との交流 (齋藤)それから旅中、いろいろな芸術家と交流しましたけれども、いちばん日記によく出てくる方の一人が浜口陽三先生ですね。パリに到着して2日後くらいには、浜口先生の家を訪ねて、その後も何度もお会いしているということです。 (上野)日記に “今日は浜口先生と南先生と一緒にセーヌ川をずっとドライブした。浜口先生は親切な方である” という意味のことが書いてあって、たいていは食べ物とお会いした方のお名前しか書いていないのですが。人に対する感想がそれほど書いてある日記ではないのですよね。それなのに「親切」と書いてありまして、それだけ強い思いがあったのだなということが分かります。 |
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(齋藤)アトリエのテーブルの上の写真ですが、ここに浜口先生の版画のモチーフになるものが写っているのですけれども分かりますでしょうか? ここにくるみが写っています。このくるみを直接モチーフにしたかどうかはちょっと分かりません。そういったものがテーブルの上にあるということが分かるという点でおもしろい写真ではないかなと思います。 |
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(齋藤)こちらもアトリエから撮った写真ですが、背後に屋根にたくさん煙突が出ているのですけれども、浜口先生の代表的作品「パリの屋根」と、ここに写っているパリの屋根がまさに同じような形をしている。ちなみにこの版画は、秋山庄太郎がこの1960年の外遊の時にいただいたか購入したものです。 |
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*帰国後 (齋藤)帰国後、秋山は45歳までは一所懸命がむしゃらに働く。それ以降は何かライフワークを定めて、それに掛けようと、そういうふうに心に決めたそうです。実際にはどんどん仕事は増えて、週刊誌全盛時代と呼ばれる時代を迎え、「週刊現代」や「週刊ポスト」などの雑誌の表紙撮影をそれぞれ四半世紀近く務めています。それと並行して、忙しい時間の合間を縫って、色々な自主制作に取り組むようになってきます。 |
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(齋藤)それから次に、抽象作品に長く取り組んでいくことになります。当時のパリではアンフォルメルという抽象芸術の潮流が非常に盛んで、それを見ているうちに、これだったら写真でやってもおもしろいんじゃないかと考えるようになって、実際に壁の写真を撮っていった。また、そちらの展示ケースでもご紹介していますけれども、水面の写真なども撮っています。 |
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(齋藤)最後になりますけれども、秋山はスタジオや別荘、アトリエに絵画などの芸術作品を飾って楽しんでいましたが、その中でも浜口先生の作品をとても大切にしていたということですね。 (上野)浜口先生の「4つのさくらんぼ」の作品は、リビングの壁にずっと飾っていました。たいてい父は、もうひとつの部屋の絵画は自分で時々掛け替えていたのですけれども、浜口先生の「4つのさくらんぼ」だけは定位置にありました。秋山本人に聞いてみないと分かりませんが、フランスの楽しい思い出を思い出したいという気持ちがあったのではないかと思っています。私もずっと秋山が生きていた時のことを思い出します。 (齋藤)今回の展示を通じて、秋山のパリ外遊時のフィルムに新たな光が当てられました。私たちもこれを足掛かりに今後の研究に取り組んでいきたいと思いますし、美術研究上の資料としてもご活用いただければ幸いです。このような展示の機会をいただき感謝いたします。 |