イベント情報 | |
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出演 | 高橋睦郎・池内晶子・福田尚代・三宅砂織 |
日時 | 2013年7月14日(日)16:00~17:30 |
参加費 | 入館料+300円 お茶とお菓子つき |
定員 | 定員:60名 |
申込み | 5/25(土)11:00より電話受付 ※先着順 |
7月14日(日)、本展覧会顧問である詩人の高橋睦郎氏と、出品作家三人の座談会を開催しました。
高橋氏の新作の詩や俳句のご披露のあと、四人の間で、制作にかかわる思想を、
「残酷」、「空」、「孤独」、「偶然」、などをテーマとして語り合いました。
ジャンルを超え、表現者同士が共感しあう会場の雰囲気をお伝えできないのは残念ですが、
やりとりの一部を紹介させていただきます。
高橋:顧問というのが非常に曖昧でして、この展覧会にこの三人を集めて秘密の湖という題をつけたのはこの美術館のキュレーターさんで、この方が僕を見つけて顧問としてくっつけたんです。これは嬉しい災難で、見せていただいて、非常に感動したというか、震えたというか、自分のやっていることは一体なんだろうとを考えさせられました。 ■生活の糧と制作 三宅:私は作品を売るほか、先生をしています。作品を作りつづけることを中心としてほかのことはアレンジするという形でいろいろなことをやりくりしてきました(笑)。 |
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■残酷ということ ■偶然について |
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三宅:私の作品は、フォトグラムという写真の一種なんですけど、まず制作の出発点として、一度誰かがカメラで撮って可視化されたイメージを素材やモチーフにしています。静物画を書く方だったら瓶とかをモチーフにされるという感じです。私にとっては、誰かが一度は世界をカメラで切り取った、そのイメージに出会うことがきっかけになります。そこから、写真を手描きでネガフィルムにおこして、また写真に戻すというプロセスをたどっていきます。でもこれは、模写や複製とは違います。イメージと出会ってそれが頭の中に蓄積されていくときのタイミング、偶然性とか、あとは誤認とかが、制作のプロセスの中で再現されるように自分の中でやり方を作っているんですね。最初にイメージに出会うとき、何か感じるものがある。それを描き写そうとするときに、イメージによってそれぞれ違う感覚が呼びおこされる。例えば、この世にあったのに今はもうないんだなという感傷的な気分を引き起こすこともありますし、色や形のおもしろさに引きつけられることもあります。この気持ちが写真を撮った人に寄り添ったものなのか、今、写真を見ている自分のものなのか、あるいは、もとのイメージをなるべく正確に写しとりたいのか、私が惹きつけられた箇所を強調していくのか、その態度はイメージによって偶然に決まっていくような感じで、態度としてはすごく曖昧です。そのプロセス通って作られた絵が、最後に、露光によって印画紙に焼き付けられると、否応なく出てきてしまい、自分でも毎回驚きます。一つ一つの作品が、多くの部分、偶然の積み重ねの結果なのかなと思わずにはいられませんね。何かを目指して出掛けて、行き先は決めているんだけれども、迷ってずっと違うところに行ってしまうこともどこかに期待しているというか。別の世界に行くには何かしら偶然のはたらきが必要だとおもいます。 |
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■空や宇宙について ■光と闇について |
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福田:私は闇にも光にも両方に、強烈に惹かれます。作品にからめてお話しますと、今、文庫本の「ランボーの手紙」の頁を切りとって、縫い針でびっしりと細かな穴をあけた作品を展示していますが、なぜ穴をあけ始めたのかはさっぱり分からなくて、はじめは衝動的な行為だったんです。それがある時、ふと太陽にかざしてみたら、無数の穴に光が通過した途端、机の上では普通に読むことができていた活字のすべてが、サーッと光の点になって、ひとしく消えてしまったんです。それだけのことかもしれませんが、私にはたいへんな衝撃でした。言葉が一瞬にして無くなり、自分の手にしていた文字が… 言葉は黒い線なので一種の闇だったとも思えるのですが… 闇が光に散った。今回は、そのことを説明するのではなく、本の頁だけを差しだす形で展示しましたが、実はそういう実際の体験が背後にあります。闇が霧散して光になった、そのとき、それを見ている自分自身もまた闇なのだろうけれど、光になって消えてしまった、救われたような感じだった。一瞬だけ、私という真っ暗な闇が光にとけた。 |
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三宅:私は、光と闇だと、闇が大きくて光が少ないという体感をなんとなく持っているとおもいます。闇だけでも光だけでも私たちはものを見ることができないので、闇の中に少しの光がある状態が私の感覚です。そこに平面があると影ができるんですけれども、絵画の起源を記した伝説のようなものに、遠くに行ってしまう恋人の影をトレースした、というお話があって、移り変わってしまうイメージを残したい、またはそこから発展して、誰かとイメージを共有したいとか、神に捧げたいというような、イメージに対する人間の欲求が、光と闇という関係の中から出てきているとおもいます。見えている部分より見えない部分の方がずっと多い、それは昔の人も今の人でも変わらないかなという感じがしています。 |