イベント情報 | |
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出演 | 宮崎 法子 (実践女子大学文学部美学美術史学科名誉教授) |
日時 | 2024年6月29日(土)14:00~ |
参加費 | 無料(入館料のみ) |
6月29日のギャラリートークの様子を一部、紹介します。波多野華涯の屏風や当時の文化状況をめぐり、話が尽きませんでした。お話の内容は、短い文字数に合わせて当館で編集していることをご了承ください。
宮崎)こんにちは。ただいまご紹介に預かりました宮崎法子と申します。専門は中国の絵画史なので、厳密に言うとこの作者の波多野華涯は日本の画家なので、何で中国美術の人が日本の画家についての展覧会のお手伝いをするのかなって思われる方もいらっしゃると思いますけれども、一応、華涯さんこの作品を見ていただいてわかるように、やはりこういった作品は中国の文人画、中国のいわゆる知識人官僚とか、あるいはある程度教養を持った人たちが詩と書と画、絵が一体になった世界を絵画として作り上げるという長い伝統がありまして。 |
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これ銀屏風なんですね。少し銀焼が起こることによって、重厚感が出てきています。金箔、箔(はく)は皆さんご存知ですよね。四角く金を叩いて伸ばして、このように箔足が見えるんですけど、この大きさのものを全部貼っていくわけですね。そして、中国ではこの箔を貼った上に描くことはしません。これは日本独特の、装飾的なこういう屏風などによく使われるやり方で、圧倒的に多いのは金です。金箔金地の襖や屏風というような形で、屏風の場合も金屏風が多いですね。中国では、金でも箔は使わないんですが、フレークを撒いて、それを撒いた紙を金箋(キンセン)って言いますけれども、その上に水墨で描くということはよくします。銀箋(ギンセン)つまり銀を使ったものはあまりなくて、水墨画を描くときも金箋、金のフレークを使った金地に描くことが多いですね。ですから、これは華涯さんとしては結構チャレンジじゃなかったかなという風に思います。そして、やはりこの銀地は水墨と非常によく合っていると感じますね。 |
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蘭は山の奥で誰も見ていなくても高い香りを放っていて、その香りがまさに人格であったり、その人の精神性の高さを表すという風に考えられてきました。この屏風の蘭ですが、蘭の迫力がものすごくて、前面に岩肌が迫ってくるような感じなんですが、それは一つにはこの蘭の葉っぱがものすごく長く降り注ぐように、岩の上から、崖の上から描かれているからです。中国では蘭や竹などを四君子と言って、他には梅ともう一つはいろいろ入れ替わますけが、菊とかですね。いつも緑を失なわない。寒い時でも緑の竹、そして香りが高い蘭や梅。菊もそうですね。他には蓮の花なんかも泥の中に咲いても汚れない、つまり儒教的な精神を反映したものとして尊ばれ大切にされてきたのですが、蘭は特に、中国の戦国時代の南の方の楚の政治家で詩人で、悲劇的な最期を迎えたく屈原(くつげん)という人が書いたと言われる詩があって、まさに蘭の花の香りで満たされたような詩です。文人たちは繰り返し蘭を描いたり、竹を描いたりしてきて、それを描くためのマニュアル的な『芥子園画伝』などの絵入りの本の中で、墨で蘭を描く、墨で竹を描く、墨で梅を描く、墨で菊を描く、その描き方とそれからお手本みたいなのが、清の初め17世紀には出版されていて、日本にもそれは入ってきていますから、日本の画家たちも、特に南画の流行った幕末の日本の南画家たちは、そういうものをすごく一生懸命勉強していたわけですね。だから華涯さんだけじゃなくて、このように蘭や竹を描くということは日本の南画家がみなしてます。蘭は小さな花なので、蘭を屏風にするのは結構難しい。蘭が下に咲いていたら、ちょっと可愛いらしいけれども、これだけ大きな画面を持たせるのは難しいと思うんですが、華涯さんは大きな岩と崖とそして後ろに山まで描いて、いわば、山水画の中に、そう、ここに流れも描かれていますね、蘭を描いています。しかも岩との比率から言って蘭が相当大きいですね。 |
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蘭を描く時どこが腕の見せどころかというと、この葉っぱ。この蘭の葉は、力んではいないけれども強い線で、ちゃんと葉の表裏を繰り返しながら伸びやかに描く。そういう技術が一つの見どころになります。この絵は、その蘭の葉の線と、それから岩を描いているこのタッチですね、ここに筆をこうやって叩きつけるようにかすれた筆と、それから山肌というか、岩肌をこうなぞるように描いてる、これは、皴法(しゅんぽう)って言うんですけれども、その皴(しゅん)のかすれと、点描みたいなものと、それが岩肌を描いているんだけど、そのタッチ自体が見所になるっていう、ちょっと現代アート的な。つまり、岩をきれいに丁寧に描きましたではなくて、岩を描くこのタッチそのものが見どころになる。最終的には岩を描いていることに、そのタッチは奉仕していなければいけないので抽象画にはならない、具象画なんですけれども、この部分だけを見ると、これは一体何なのか?って思うようなタッチ(筆跡や筆触)が、ちょっと離れてみるとああ岩肌の凹凸を表しているのかというような、その様々な筆使いそのものを楽しんで、しかも画家がここで筆を揮い描いていた息遣いがそこに残っているというのが、文人画の、水墨画の楽しみの一つになります。これを眼で追って次々に見ていくことによって、自分も描いているような感覚を得ることができる、そして、この線ですね、この蘭の葉っぱの気持ちのいいストロークを大きく腕を使いながら重ねていく、その身体性を再体験するような。それもやはり、この絵の見所というか、先の岩肌のタッチとは対比的な筆使いになっています。 |
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次に竹です。蘭の迫力に比べると、竹が少し後退している。つまり後ろに遠ざかっていく霧に霞んでいる。そういう風な描き方になっています。 |
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この辺の竹は篠竹、細い笹みたいな竹です。それがものすごく数多く、軽く、そして淡く、だんだん後ろに後退するような感じで、この太湖石の周りにあるんですけれども、こういった煙った、雨の中の篠竹がいっぱい生えている、そういう水辺の情景は中国で繰り返し描かれてきた画題ですので、ここに反映していると思います。 |
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そして、この書もですね。この最初の書き出しでは、結構きちっとした感じで書かれていて、最後のところはかなり草書的に、と言うか崩す感じで書き終わっています。絵全体も、微妙にそういう風な流れがあって、それから空間も、こちら竹図は後ろが山はなくて、全部霧に霞むようですけれども、後ろから水流れが複雑に流れてきている水辺で、右隻は山の奥深くで、左隻はもう少し山を下ってきたところという感じに変化がつけられていると思います。そして、右隻は、ほの暗い谷、夕刻に咲く蘭というイメージで描かれていますけれども、左隻は水辺が広がりながら空間が開けていく、というか霧の中に遠ざかる。そして、銀によって、ほの暗さと同時に淡い月の光が満ちているような、そういう形で画面が大きく言えば構成されています。 |
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すごいなと思うのは、明治の最初の頃ですね、幕末に生まれて、生まれた時はまだそれこそ江戸時代です。それで跡見学校ができたので、10歳そこそこで一人で東京に出るなんてことができた、しかも結婚して、大きなお寺の奥様として子供を育てた後、やっぱり画家として絵をもっとちゃんと描きたいと50代で自分の人生を変える。それはすごいことだと思います。自分で切り開いていった人の気概みたいなものが、例えば、爆発するようにすごい勢いの蘭の葉であったり、あるいはこういうところの岩も、ある種のパターンを超えて、いろいろ峻法があるんですけども、それに従って丁寧にやるとかではなくて、もう墨をぶつけるように筆をぶつけるようにして、この世界を作っていく。意思の力、並外れた強さをこの作品から感じ取ることができます。それでいてうまくこの画面の中に収めて、最後にこの世界をここで余韻を持って閉じています。さらに、詩を読んだり、その韻文を読んだりすると、世界がその奥に広がっていく。それが文人画の、何と言うか、表面に現れたものだけではなくて、見る楽しみであって、多分それを分かっている人たちが集まって見ることによって、その思いを共有するという機会があったんだと思うんですね。 |
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そして、その文化環境の中に浜口陽三さんのお父さんもいらしたわけです。和歌山の濱口家には、野呂介石のお弟子さんだったご先祖もいますし、関西の実業家は特に中国の書画を集めるのが一つのステータスでもありましたし、ステータスだけでなくて本当にお好きな方が多くて、そういうコレクションを持っていらした。華涯さんが二十歳の時に和歌山の濱口家に、中国の『女孝経図巻』、人物画で南宋画ですが、それが濱口家にあったので、華涯さんは訪ねていって、逗留して模写させてもらったということです。華涯さんは算術が得意だったので、まだ幼かった浜口陽三のお父様に算術を教えたりした。それをお父様は覚えてらして、貴族議員になって、東京で、当時活躍していた華涯さんと展覧会で再会して、あの時のということで。貴族議員の仲間から有志を募って華涯さんに絵を、南画を習うことにした。それがこの浜口陽三さんとのつながりになるわけです。 |
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岩村)改めまして、この度この屏風を展示していただくにあたって、お声かけていただいてご尽力いただいた小田切様、それから美術館の皆様、解説していただいた先生もありがとうございます。 |
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小田切)初めまして。小田切マリでございます。華涯の曾孫にあたります。本日は美術館開設25周年、本当におめでとうございます。そのような大切な時に華涯の屏風を飾っていただき、陽三様とのー匂い立つ黒と黒―のコラボが叶いましたことを本当にありがたく思っております。皆さま、本日はお越し頂き誠にありがとうございます。私はご紹介頂きましたが、華涯のひ孫にあたり、華涯が住んでおりました家で生まれ育ちましたので、華涯の物に埋もれて育ったようなものでございまして、お話ししたいことはいっぱいございますが、先ほど宮崎先生から丁寧にご解説いただきましたので、華涯の話はやめにして、今日はこの美術館が25年前にできました時の話をご紹介させていただこうと思います。 そうこうしているうちに、80代になられた陽三様が、「自分はアメリカに永住する。こちらに墓も作る」と言ってこられたのだそうです。それで一族皆で心配して、「どうしてそんなことを言うのですか。とにかく帰ってきてください。」といくら手紙を書いてお願いをしても聞き入れてくださらない。それで甥の道雄様が、一族の思いを受けて、サンフランシスコまで行って説得にあたられたそうなのです。 |